出エジプト記3章

3:1 モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。

 モーセは、イテロの羊を飼っていました。彼は、ホレブまでやって来ました。その山は、神の山と呼ばれています。後に、この山で律法を授かります。

3:2 すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。

 彼は、柴が燃えているのを見ました。しかし、柴は燃え尽きませんでした。御使いは、その茂みの炎の中に現れました。これは、十二節で、「これがあなたのための印である。」と語られた、神の印です。それは、主がモーセと共にいることを表しています。モーセが拒むことを既にご存知であり、この印をはじめに示したのです。

 柴は、モーセのことを表しています。そして、炎は、彼と共にいる主が現す栄光を表しています。柴が燃え尽きなかったように、モーセ自身が燃えて栄光を表すのではないのです、共におられる主が栄光を現すことの比喩です。

3:3 モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」

3:4 主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。

 彼は、そこに近づきました。主は、モーセに二度呼びかけられました。重要なことを語る時に神様が取る方法です。

3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」

 そして、言われたことは、ここが聖なる地であるので履き物を脱げと言うことでした。

 履き物は、所有権の比喩です。聖なる地とは、ここは、神のものであるという意味です。すなわち、モーセには所有権はなく、すべては神のものであることを示したのです。

 これからなす神の業、すなわち、エジプトからイスラエルを連れ出してカナンの地に導く業は、すべて神の御心として、神の計画の実現として行われるのであり、モーセの何かにはよらないことを示しました。

 今日でも、教会を通して神の業が行われていますが、そのすべては、神の御心に基づく働きであり、聖霊の業です。人の何ものも入る余地はありません。人のためではないし、人の誉のためでもありません。コリントの教会のように、肉による妬みや争い、知恵を誇り、特別な能力を誇るようなことがあってはならないです。

 なお、靴を脱ぐことに関して、日本人の感覚で、聖なるところに土足で踏み入れたことが悪いと考えるのは誤りです。そこは、荒地であって、日本家屋のように靴を脱ぐべきような所ではありません。

ルツ記

4:7 昔イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける認証の方法であった。

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3:6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。

 モーセに対して、主は名乗られました。ご自分は、モーセの父の神であると。モーセの父アムラムと並べて、アブラハム、イサク、ヤコブの神であると。彼の父は、妻と共に偉大な信仰者です。彼らの信仰によって今のモーセがあるのです。主は、そのことを高く評価して、彼の名を取り上げたのです。

 燃える柴の箇所では、御使いと記されていましたが、この言葉から主御自身であることが分かります。神の御子です。

 モーセは、神と認識していました。それで恐れて顔を隠したのです。

・「父祖」→父。単数。なお、十六節の「父祖」の神の父祖は、父の複数形。

3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。

 イスラエルは、私の民と言われ、神のものであることを明らかにされました。その苦しみは、奴隷であること、また、追い立てる者たちからの苦しみです。それは、かつての信者が内住の罪の奴隷であり、また、悪魔の虐げの中にいたことの比喩です。悪魔は、人を神から離すことで、呪われた道に歩ましめ、虐げているのです。

 主は、その彼らの痛みを知っていると言われました。知っていて解き放つのです。

3:8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。

 主が下ってきたは、奴隷となっている者をご自分のものとして奪い取り、その地から良い地に導くためです。「良い地」は、比喩で、信者が、神の御心を行い、神の目に適った歩みをする状態を表しています。そのために、この世から、奴隷の地から移されるのです。

 そこは、乳と蜜の流れる地です。乳は、信者を養う御言葉の比喩、蜜は、人を健全にする御言葉の比喩です。流れは、聖霊の比喩です。聖霊は、御言葉によって働かれ信者を変えます。そして、神の目に適った者と変えるのです。

・「良い」→神の目に適って良い。

・「救い出し」→はぎ取り。奪い取る。

・「乳」→信者を養う意味での御言葉の比喩。

・「蜜」→箴言 16:24 親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする。甘さは、たましいを正しく歩ましめるからです。それこそ、最も祝福された喜びをもたらします。また、骨は、その人の持つ教えや考えですが、それを健やかにすることは、その教えが神の言葉に整合することで、その人の歩みが神の御心に適ったものになるためです。

3:9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。

3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」

 今が、主の計画の実行の時でした。モーセに対して、今行けと言われました。今という言葉を二回使っています。その時であることを繰り返し示したのです。

3:11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」

3:11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」

 モーセは、自分がそのような働きの出来る者ではないことを申し上げました。彼は、「自分は一体何者なのでしょう。」と二回繰り返しています。彼がその時見ていたのは、自分自身です。自分の手で何かはできないと考えていたのです。

3:12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」

 それに対して、神の仰せられたことは、「わたしが」あなたと共にいるということです。そのうえで、彼が目にしていることがしるしであると示しました。それは、燃える柴です。それは、すでに記したように、モーセ自身が何者であるかによらないのです。事をなさるのは神であり、神の栄光が現されるためなのです。

 もう一度、「このわたしが」遣わすと言われ、彼に信仰を要求しました。

 モーセが民をエジプトから導き出すとき、この山で仕えるように命じました。既に、神の計画は確定しているのです。モーセが自分のことばかり考えて、神の命令を拒む余地はありません。彼は、神に仕える民全体のことを考えなければならなかったのです。

3:13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」

 モーセは、民が神の名を尋ねるでしょうから、それを教えてくださるように願いました。

3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

 神は、「わたしはある」という者であると名乗られました。存在する者であり、永遠の存在者です。信ずべき方としてこれ以上の御名はありません。

 イエス様は、この呼称を時々口にされました。例として、嵐にあった弟子たちの前で、「わたしだ。→わたしはあるである。恐れることはない。」と。

マタイ

14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

・「わたしだ。」→「エゴ、エイミ。(わたしはある。)」

ヨハネ

8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

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3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

 そして、ご自分の名、また、ご自分の記憶すなわち覚えるべ名として「ヤェホバ」と示されました。父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるヤェホバであると。彼らの先祖たちも信じて来た方であり、イスラエル子らも信ずべき方であることを示したのです。

・「主」→ヤェホバ。

・「父祖」→「父」の複数形。

3:16 行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。

・「顧みる」→訪れる。関与する。日本語の「顧る」は、心にかけることを意味しますが、心にかけることは長老に語る時点ですでに行われていることです。それに、これは、完了形です。

3:17 だからわたしは、あなたがたをエジプトでの苦しみから解放して、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地へ、乳と蜜の流れる地へ導き上ると言ったのである」と。』

 そして、イスラエルの長老に次のように語るように言われました。もう一度、主の御名を示し、その方が、あなた方のこととエジプトであなた方になされていることを確かに見て、関与した(積極的に関わり結果を約束すること。)。

 そして、エジプトの苦しみから解放し、いわゆるカナンの地すなわち、父と蜜の流れる血に導き登ると言われたことです。

 乳と蜜は、すでに見たように、御言葉の比喩で、流れは聖霊の比喩になっています。

 エジプトは、世を表し、悪魔の支配するところの比喩で、そこでは、悪魔の支配のもとに罪の奴隷として歩み、悪魔に虐げられていたのです。

3:18 彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』

 そして、モーセに対しても、長老たちがモーセの声に聞き従うことも保証されました。そして、彼らと一緒にエジプト王のところへ行き、神、主にいけにえを捧げるために荒野へ行かせることを願うように言いました。

3:19 しかし、エジプトの王は強いられなければあなたがたを行かせないことを、わたしはよく知っている。

3:20 わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打つ。その後で、彼はあなたがたを去らせる。

 しかし、エジプトの王は、強いられなければ彼らを行かせないこと、そして、その時、主の力を現し、あらゆる不思議を行い、その後彼らを去らせることも告げました。主は、イスラエルに対してのみならず、全世界に対してご自分の御名を明らかにするためにこのことを計画しておられたのです。

3:21 わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたが出て行くとき、何も持たずに出て行くことはない。

3:22 女はみな、近所の女、および自分の家に身を寄せている女に、銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求め、それを、自分の息子や娘の身に着けさせなさい。こうしてあなたがたは、エジプト人からはぎ取りなさい。」

 そして、エジプトを出る時、何も持たずに出て行くことはないと言われました。エジブトが彼らに好意を持つようにするので、女たちは、近所のエジプト人や家に身を寄せているエジプト人から銀、金、衣服を求めるように言われました。剥ぎ取るように言われ、徹底的に貰うように言ったのです。

 銀の飾りは、贖われた者の振る舞い。金の飾りは、義とされた者が現す義の行い。衣服は、外に現れる行いで、キリストを現すことの比喩です。しかし、エジプト人には、霊的な実は一切ないのです。それらは、神のものとされるイスラエルの息子や娘が身につけて現すのが相応しいのです。それらは、この世でも価値あるもののように見えるかもしれません。そのために哲学や、宗教があり、ただの人間さえ良い行いをしようとするのです。しかし、神のものとされない限り、なんの価値もありません。神のものとされた民を通して、神の栄光が現されるのです。

 これらの高価な物は、やがて、神の幕屋のために捧げられて使われます。キリストの栄光を現すものとなるのです。そして、神に栄光が帰せられます。このように、信者の表す実は、キリストの栄光の現れであり、神に栄光を帰すことになります。